琳堂ヤコのHell's Drive

ADHDで躁鬱で教養あるけど生活力ない人

あの時褒めてくれたら

久々のブログ更新。

今回のテーマは「あの時褒めてくれたら」。

 発達障害を持っていると「注意される・叱られることが多くて自己肯定感が低い」という傾向があるのは周知の事実(少なくとも発達障害について調べたことがある人の中では)だと思うので省略。褒めてもらえた経験より叱られた経験の方が多い、もしくは印象強いのは発達障害界隈では当たり前のこと。

発達障害当事者の多くはこれを自覚しているところだと思うけれど、じゃあヤコ氏の場合はどうなの?ということを書いていく。

(主語が「発達障害」「ADHD」となっているところは、あくまでヤコ氏が考えていることなので当てはまらないところも出てくるとは思う、そこはご了承願いたい!)

 

 

 ヤコ氏は小学生の頃から文章を書くのが好きだったし、得意だった。

それは読書量が平均よりも多かったというのもあるし、自己表現として自由を感じるほど気軽に扱える「言葉」が好きだったというのもある。みんなが夏休みに悩む宿題の一つ「読書感想文」もヤコ氏にとっては大好物だった。自分の好きなように書ける。私の考えていることや感じていることをそこに込めて人に読んでもらえる。それは書き手である私と読み手である相手の両者だけの対話のようなもの。そこに楽しさを感じた。

 もちろん、読解能力も高かった。小学校時代に通った受験対策塾では、成績によって分けられたクラスのなか、現代文の模試のスコアが四クラス分以上の高得点だった。中学高校に上がっても、文章を書くたびに国語の先生は評価してくれた。琳堂の文章は綺麗だ、と何回も言ってもらえた。それは文章を音として捉えているからなのだけど(小難しい書き方も得意だけど、やはり文章は音の流れが重要だと思う)。

 学校の授業以外でも文章は書いていた。既存のキャラクターやストーリーから連想して創作する、いわゆる二次創作をやってみたり、オリジナルで物語を進めてみたりして遊んだ。それはパソコンに触れ始めた小学校四年生から続けていた。親にそれを読ませたりもしていた。友達も読んでくれて評価をしてくれた。

 

 ここまで書くと、「なんだ褒められてんじゃん」と思われるだろうが、私にとっては違う印象があった。

十分な評価ではない

 これだけ褒められるのに何故だろう。それらを「過小評価だ」と思っていたのか?いや、違う。それ以上に、「他のことが出来ていない」ことに周りがフォーカスしていたと感じていたからなのだ。

 文章を書くのが上手いね、という点では満足する評価をしてもらってきた。しかし、その他(例えば、毎朝ちゃんと起きて忘れ物をせず学校へ行くことなど、周りが淡々と行えるもの)の評価は平均以下だったので、「琳堂は文章を書くのが上手いけれど、やるべきことができていないね」という総合評価が私の自己肯定感を結果的に低めていた。

 文章を書くのが上手いと褒められるたびに、「そうでしょう。だって私は文章を書くのが好きだし得意だもの!でも、当たり前のことができない。文章を書くのが上手くたって、当たり前のことが出来ないんだから何の意味もない」と感じた。

だからこそ、文章力を更に高めようという気持ちよりも、当たり前のことが出来るようにならなきゃという気持ちが先決した。そして初めて文章力も正当に認めてもらえるとどこかで思っていた。とにかく、誉め言葉に後続する低評価をなくしたかった

 

 しかし、まあ当事者である読者なら既に予測がつくだろうが、当たり前のことが出来ないのが発達障害である。できたとしても、それは結構無理をして頑張った結果。周りが難なくできることにも下手したら何倍ものエネルギーを使って、やっとできるレベル。

ヤコ氏の場合は、学力的にも人間力的にも問題はなくむしろ平均より優れていた方なので、頑張って頑張ってやっとできるその「当たり前のこと」も、「よく頑張ったね」どころか「ほら、できるんじゃん」という評価「できるのにやらない」評価だった(ように感じた)。

 出来ないことを指摘されるより、出来ることを褒めてほしかった褒め言葉に後続して低評価をされるより、低評価の後に前者を軽く打ち消すように褒めてほしかった

頑張って頑張って出来たことが、たとえ周りが難なくできることだとしても、認めてほしかった。

 

そういう思いが25歳のヤコ氏の中でまだ拭えない。本当はもっと褒めて欲しかった。それは回数の問題ではなくて、低評価を補うような形で。これは出来るけどこれは出来ないね、ではなく、これは出来ないけど、これは出来るね、という形で。ここでわざわざ説明することもないが、人間は基本的にエンドフォーカスである。字の如く、後から続くものの方が、前に置かれたものよりもフォーカスされる。だからこそ、そのエンドに出来ることを述べて、発言を受ける側のヤコ氏も「出来ること」にフォーカスさせるようにして欲しかった

 

 言うまでもなく、ADHDは「出来ないことは最低限出来るように、出来ることをもっと出来るように」生きるのがベストである。やらなくてもいいことはせず、出来ることを伸ばしてスペシャリストルートを行くのが良しとされることが多い。オールマイティータイプではなく、特化タイプというやつだ。だからこそ、当事者は「自分ができること」にフォーカスを置いて生きる方がやりやすいと感じる。

 発達障害を持つ子どもを持つ親御さん、発達障害当事者を部下に持つ上司の人、また同僚の人、友人の人に言いたい。

発達障害を持っている人間が何もかもダメだと思ってしまう生き方も、何か一つでも優れるものを持っていると思える肯定感の中で生きる生き方も、あなたの評価の仕方にかかっているかも知れない、ということを。

 

 ということで、「あの時褒めてくれたら」というテーマで書いてみたよ。

褒めたら伸びる、叱られたら委縮するADHD(他の障害もなのかな?)なので、当事者を伸ばしたいと思うなら褒める回数を増やしてね、という話でした。